政治家が不祥事に対して責任を取っていない、この社会の不条理について、なんとか彼らに責任を取らせることができないものかと、丸山眞男やハンナ・アーレントらの論考を探っていくものの、結局はそういう者を選んだ私たち自身の責任へと跳ね返ってくるが、その構造自体を正面から受け止めることこそが、民主主義であるとし、また、責任を掘り下げていく過程で、本来政治化すべき問題を非政治化して、問題を不可視化して、自己責任として片付けようとする風潮にも異を唱えている。
第1章では、何らかの不祥事の当事者として疑われる政治家が責任を問われたときに、そのまま職に留まり職務を全うすることを以て責任を果たすとしていることが、制度への責任にすぎず、高次の原理への責任を果たしていないとし、一方で有権者の側も当人の政治責任を追求せず再選させたりしていると指摘しています。
第2章では、アーレントら海外の論考を多用しながら、共同体の一員である個人が共同体の権力によって生じる様々な正負の影響をどこまで引き受けられるかを考察し、例えば欧州ではナチの台頭やホロコーストを許したのが、前の世代だとしても、その政治責任は、子の世代はおろか、周辺国までも負うという解釈すらあるようです。
第3章では、責任を取ることについて、丸山眞男らの論考を引用しながら、政治責任とは政治的な選択と判断を行う限りは市民の側にもあり、過去の権力行使に関して、現在の権力行使によって責任を果たし、未来の権力行使を導くとします。
第4章では、無責任であることについて考察するにあたり、丸山眞男が定式化した無責任の体系として、権威の代表である神輿、権力の代表である役人、暴力の代表である無法者の三つを取りあげて、無責任の様態を解説した後、政治家が無責任であることが我々自身の問題で、現実を変えられないと発想することも無責任と断じた上で、岩盤支持に回らないことや、支持すべき相手がない場合は、勢力の弱い側を支持して選択肢を残すことを提案します。
第5章では、責任の取り方として、新自由主義的な自己責任や、倫理的な意味における個人としての償いと、政治責任を明確に区別した上で、政治的な過ちは、そのようなことを引き起こした制度的な欠陥をただすために、未来に向けて新たな選択を確保し民主主義を維持し続けることが、私たちの政治責任であり、ましてや不祥事を起こしておきながら当の本人が職に留まることが政治責任を果たすものではないとします。
コメント